写真について

昨日印象的な出来事があって、いろいろ考えたのでそのことについて書いてみる。

写真について。


前提1.

ここ数年、前ほど写真を撮らなくなった。 人に見せてネタになりそうな面白いもの・変なものに関しては話は別で、綺麗なものがあったりこれは良い思い出になるなと感じる瞬間のこと。そういう時に携帯やカメラを取り出して写真に収めようという気があまり起きなくなった。 なんだか「それを自分の目で見ている今この瞬間」をなおざりにするような気がし始めて。 それから、ベトナムで生活している時に、「日本人の自分には物珍しいけど自分以外の全員にとってはごくごく普通の状況」をカメラでパシャパシャ撮って記録するのがなんだかせっかくある程度溶け込んでいるところに自分をあえて輪から疎外する行為のように思え始めた。あくまでも私は地元に馴染んでいるんだ!と思いたくて、自分を"ただの観光客の地位に貶める"のが嫌だったのかもしれない。 そんなこともあって、旅行先でも何か見ているものをプロフェッショナルなカメラはおろかiPhoneとかの世界にカジュアルにいい感じに収めようとする行為がなんだかおこがましいことのように思えてきた。 なので、一緒にいる人がそれに熱中しているとそれもエゴに思えて「今あなたがやっていることって、今この時間を『一緒に同じものを見て楽しみを共有している』のをやめて『自分がいかに"イイ感じの"写真を撮って満足するかタイム』にしていることだよね!それって自分勝手!」と勝手にプリプリしたりするようになった。

前提2.

これまで人がちゃんとしたカメラでちゃんと撮った写真を見た時に感じるのは2パターン。

1つ目は、プロやプロ並みの写真家が撮ったのを見た場合。「ああ、さすがプロだから/腕のいい写真家だから/アーティストだから、これは高度なテクニックや知識とアーティスティックな視点によって作られた高クオリティの写真なのだ。その技術がすごいなあ、そしてそれによって撮られたこの写真はきれいだなあ」という素直な感想を抱くこと。なんというかオリンピックでアスリートが人間離れした技術を見せたりものすごく速く走る・泳ぐなどするのを見たり、テレビや映画や舞台で超美しい人とかを見て純粋に「すごい!きれい!」と感心する感じ。なのでSNSでそういう人の写真を見たり写真展とか行ったりすると楽しいし展示された作品を見て素敵だと感じる。

2つ目は、別に撮影者は特段プロでもテクニシャンでもないけど被写体自身が素晴らしい絶景だったりする場合。山奥で撮られた満天の星空とか、南国の真っ青で美しいビーチとか、見事な建築物とか、そういうのを見ると写真という媒体の存在を意識することなく、純粋にその被写体自身に対して感心して、おお!こんな素敵なところに行ったんだ!よかったね!と祝福したり、そこに自分も行ってみたいな!と思ったりする。


...というのが自分の写真へのスタンスだったので、正直そもそも自分は写真というジャンルにそこまで感動するタイプでもないんだろうなという感じだった。

が、昨日同僚の撮った写真を何の気無しに見せられるがまま見ながら「いいねーいいねー」と無難に褒めていたら、今までと違うことが起きた。その人は旅行が趣味(よくある)で東南アジア諸国バックパックで旅して回って(よくある)ほうぼうで写真を撮っている(よくある)という普通の人なんだけど、香港とミャンマーベトナムで撮ったという、何気ない日常や田舎の道端で出会った現地の住民や道中一緒になった旅行者の写真を見ていたら、そして写真に映ってる見知らぬ人たちの笑顔やあどけない表情を見ていたらだんだんなんだかものすごく胸が熱くなって、本当にいいなと思って、感動してなんだかドキドキしてきて、しまいにはなんと涙が出てきたのだった。なにか特別な感動的エピソードを添えられたりしたわけでもなんでもないのに。

「いい写真だったからその写真に感動した」というほど単純でなくて、その人がシャッターを切る前後の被写体とのコミュニケーションとか、ファインダーを覗いてる真っ最中この写真に映ってる人はこういう動きをしてたんだろうか、こんな事をしていたんだろうか、とかそんなストーリーが生き生きとしたイメージを伴って浮かんできて、それに対してなんだかものすごく高揚した感じ。

賑やかに暖かく交流してる家族とか友人とかそういったものを見て、突如よく考えたら見知らぬ地に一人でいるゆえのホームシックが呼び起こされたのか。 東南アジアの雰囲気を見てベトナムでいろんな人に優しくしてもらったことを思い出したのか。 旅先で撮る写真が思ってたより良いものだって気づいてカルチャーショックを受けたのか。

上記はどれも多少なりとも当てはまると思う。

でもやっぱりもしかしたらその写真を撮った同僚の生き方を瞬時に自分と比べたのかもしれない。今の自分の直接的に孤独な状況と、おそらく日本に帰ってからもそうであろう非社交的で省エネな生き方と、旅とか旅先での出会いにそこまで重きを置いていない自分の嗜好と、体験したことをできるだけ生に近い形で記憶に留めることを放棄している自分と、比較して、ああ自分って知らない間に多くのことを見過ごしてたり見ないようにして生きているなって思って、そんな自分を批判したくなったのかもしれない。

真相は不明だし別にこれ以上分析することに意味も価値もないけど、 とにかく自分でびっくりしたし、ここしばらくかつては過剰だった自意識がしばらく影を潜めていたのを久しぶりに色々考えたので、とりあえずこのことは文にして残しておくべきと思ってわざわざ書いてみた。